商店街育ち
私の父は下町の商店街で商店を経営していた。商店街の理事長や地元小中学校のPTA会長なども経験しており、地域の発展には大いに貢献をした。したがって、私の人生は、商店街育ちの人間として始まった。昔の商店街は、家業からなる個人商店から構成されており、現代のように大手スーパーマーケットやチェーン店は進出していなかった。
小学校の友達の中には、商店街が一緒だった子も多数いた。登下校時に、商店街の通りを歩けば、友達もその両親も、お互いに皆よく知った仲である。今でも、おじちゃん達、おばちゃん達の顔が目に浮かぶ。野球のうまい子、習字が得意な子、歌のうまい子、等々いろいろな子供がいた。私は、「あの相撲の強い子」で通っていた。
私が珠算学校に通い、珠算1級の免状持っているのも、商店街育ちのあらわれである。会社員の子ではなく、商店の子供たちなので、多彩といえば多彩である。家業からなる商店街では、扱う商品は異なっても、皆同じ地域文化圏で生まれ、育っていった。
私が大学に進学してからも、会社員の子よりも、商店などの自営業出身者に親近感を感じていた。同じ境遇だったからだろうか。私の親類などを見渡しても、会社員は比較的少なく、自営業が多かった。だから私が大学卒業後に会社員になった時には、家族、親類ともに興味津々だったような気がする。
その商店街も、スーパーマーケットの普及、ネット販売の急速な展開など、時代の波には勝てずに、苦労している。わが実家の商店も、世代交代とともに、コンビニエンス・ストアに代わり、近年歯科医院に変わった。時代の変化には抗しがたく、環境の変化には、変化で対応、適応せざるを得ない。私は日頃から、環境の変化に対する環境適応力が生きていく上で大事だと言ってきた。そのことがまさに商店街で展開しているのを間近に見ることになった。
私が大学を定年となる前年に、授業後にある受講生が相談にやってきた。次の学期は無理だが、その後の学期に私のゼミを受講したいとのことだった。私は翌年定年なので、希望分野の先生を紹介したいと思っていた。そのやり取りの中で、学生は珍しい響きの言葉を発した。次の学期にゼミをとれないのは、「家業の都合」であった。「家業」という言葉を使う若者はそれほど多くない。
後で知ったことだが、彼は、芸の世界で何代も続く家系の出身で、学業と家業とを共に熱心に取り組んでいる人物であった。私も興味を持ち、彼の演技をテレビで鑑賞し、劇場にも足を運んだ。彼の活躍ぶりがマスメディアで報道されるにつけ、いろいろな教え子がいるものだなとつくづく思った。
生まれ育ちが異なることは楽しいものである。ある先輩が面白いことを言っていた。「大学のクラス会参加者の多くが一流企業にいっているが、話が面白いのは断然地元小学校の仲間だな。さまざまな人生や世界があって実に面白いし、みんな元気だ」、とのことだった。人生が面白くて、元気なのは理想である。さて、いろいろな出自の私たちは、どんな人生を歩んでいくことになるのだろうか。
(金安岩男 慶應義塾大学名誉教授)