道具をつくる

ある職人さんが、職人の特徴は何なのかについて聞かれ、興味深い指摘をしていた。職人は、自分で自分用の道具がつくれますよ、とのことだった。テレビ番組で、職人の仕事場をみることがあるが、なるほど職人は自分の道具を工夫している。使用するノミは使いやすいように曲げてある。この種のことはどの分野でも見られるようだ。
藤田嗣治は世界に知られた画家の一人であるが、その乳白色の美人画がどのように描かれたのは長年不明であった。ところがある人が、画室に置かれたベビーパウダー缶の存在に気がついた。乳白色の源の発見である。そして、画筆として使ったのは、輪郭線の描写に適した面相筆だった。藤田の精細な描き方は、この面相筆が生み出していた。画家にとって、材料、道具、そして技法の三点セットが基本要素のようである。
文芸評論家の江藤淳さんとは、大学の教員食堂で昼食をご一緒する機会が何度かあった。江藤さんは夏目漱石研究でも知られている。その時の話に、夏目漱石の作品を単行本ではなく、新聞に連載された時の新聞小説で読み解いたそうである。そうすれば、新聞掲載時である明治時代の政治、経済、文化などの時代背景が自ずと分かる。読み手の身体感覚になるとでも言えるだろうか。なるほど、江藤さんなりの工夫、つまり江藤式文芸解読の手法となっていた。
スポーツ選手も、道具や技法開発に余念がない。 大リーグで大活躍の大谷翔平選手は、すべての言動が注目の的となっているが、その工夫ぶりは枚挙に暇がない。報道の解説記事によれば、例えば今年使用中のバットの長さは、 1インチ(約2.5cm)ほど長くなっている。この長さをいかし、足の構えを変えた打撃が、鍛え上げられた身体で本塁打を量産している。
学術研究の世界で道具に相当するものといえば、研究方法の構築がある。工学系ならば、どのような組立方法や分析装置を用意するかということである。また文化系ならば、どのような考え方、分析・解釈方法を備えるかということである。
大学院生は研究者の卵なので、学部生とは異なる次元の要素が要求される。その一つに、自分独自の方法を開発したかどうかということである。指導する教授らも、研究方法の確立を厳しく指導する。
私は、日常生活の家事においても、段取りなどの工夫が必要だと思う。人付き合い、仕事、娯楽、その他どのような分野でも効果的な道具作りが大切であり、これを習得している人のことを「達者」と呼ぶのではないかと思っている。
(金安岩男 慶應義塾大学名誉教授)