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私の手元に、「裁判心得留」(明治16年(1883))と題された手控え帳がある。崩し字で書かれているので、判読は結構むずかしい。書き手は櫻井政秀で、この人物は、かつて本欄の「過去が今になる時」(2015年5月)でご紹介したことのある櫻井惣八郎政秀と同一人物である。ご本人は、江戸から明治になり、何らかの理由で櫻井から豊田に改姓していた。今回の内容は「過去が今になる時」の文章の続きに相当し、櫻井惣八郎の江戸時代と明治時代の二つの人生が明らかになる。
櫻井惣八郎政秀は、生年は不明であるが、没年は明治27年(1894)である。勝海舟や福澤諭吉などとほぼ同世代の人物であると推察する。櫻井惣八郎の江戸時代の仕事は、豊田家に残る一つの古文書から知ることができる。古文書は、慶應元(1865)年5月14日付のものであり、櫻井惣八郎・木嶋隆之助の名前で記され、宛先は宿場の各問屋や役人たちである。内容は、御進發御供「先觸」(さきぶれ)の「覚 御断人足高五拾弐人 内訳」(以下、「櫻井家文書」)である。櫻井惣八郎は、鉄砲、弾薬などを運搬する責任者の役割を果たしており、御鉄砲方兼大筒方を担う井上左太夫の家来と推察される。また、木嶋隆之助は、櫻井惣八郎の家来である。なお、櫻井家文書「先觸」は、慶應元(1865)年5月16日に江戸を出発した14代将軍徳川家茂の「御進發」(長州征伐)、「御上洛」と連動する文書である。
豊田惣八郎(櫻井から豊田に改姓)が、明治維新後に、どのような仕事についていたかについては、豊田家に残る「明治十六年治要始審裁判心得留」(1883年)なる手控え帳から知ることができる。この文書は、原告の代理人である豊田惣八郎が、原告と共に、浦和治安裁判所長判事補宛に提出した書類の手控えである。つまり、金貸しや盗難などの裁判の際に原告の代理人を務める「代人」が、豊田惣八郎の仕事だった。読み書きができ、武士として行政手続きを熟知していたので、この種の仕事を行っていたのであろう。
日本弁護士史の再検討を行った橋本誠二氏の論文によれば、代言人や代人とは以下の内容の業務を行う人のことである。明治13(1880)年5月、代言人規則改正が公布され、各地方裁判所管内の代言人組合への加入が義務付けられ、代言人試験も、毎年二回、司法省から各地方検事に問題を送り試験を行うという統一方式に改められた。同時に「代言人規則改正ニ付詞訟代人心得方」が公布された。原被告、免許代言人がいない場合には、区戸長の公証をもって親属または相当の者を代人とすることができる。代人たる者は一事件を限り受任しなければならないとある。例えば、夏目漱石が有名作家になってから、漱石の養父が代人を立てて、養育料を要求するために夏目邸を訪ねさせている。夏目鏡子夫人の『漱石の思い出』に「三百代言みたいな人をよこしては、ゆすりにかかりました」とある。
代人による訴訟代理活動は、全国的に確認できる現象でもあった。明治10年代後半(1880年代前半)の時期、代人の肩書をもって訴訟代理業を営む者が、大審院段階でも相当数活躍していたと思われる。当時の法廷は、免許代言人と代人によって業務が行われていた。代人の中にはたちの悪い者もいたようであり、その後、代人の姿は法廷から消えていく。そして、法廷内の活動は、代言人・弁護士の独占業務行為として確立していった。彼ら非弁護士たちに与えられたのが、「三百屋」「三百」などの蔑称であった。「三百代言」(詭弁を弄すること)の言葉の由来が分かり、かつ惣八郎の一身に二生の生涯と共に興味深い。
(金安岩男 慶應義塾大学名誉教授)
