1. ホーム
  2. Men’s Life Style
Men’s Life Style
金安 岩男

著者:金安 岩男
1947年2月に東京の下町に生まれる。
学部で経済学、大学院で地理学を学び、外資系情報企業、国立大学、私立大学での勤務経験を有し、研究、教育、研修などの各種プロジェクトを実施。地理学者として、計画実践、プロジェクト発想に取り組んでいる。海外諸都市の街歩き、相撲などを趣味に、発想のヒントをいつも探究中。社会的活動として、政府機関、地方自治体の各種審議会、委員会などの会長、委員などを務めている。
主な著書に、『時空間の構図』、『プロジェクト発想法』、その他多数。現在は、慶應義塾大学名誉教授、新宿自治創造研究所所長。

艶肌コラム

技術の心 心の技術

記事一覧

2023/05/29

九十九

2023/05/02

私は誰?

2023/03/30

野球の文化論

2023/01/27

上書き保存

2022/12/30

師造化

2022/11/29

坂道

2022/07/29

地下水の話

2022/05/30

江の島詣

2022/04/29

理髪師の息子

2022/04/04

何を根拠に

2022/02/26

たのしみは

2022/01/28

心技体再考

2021/12/27

謎掛け

2021/09/03

愛読書

2021/06/29

うちわ話

2021/04/29

身近な古墳

2021/04/02

国際電話

2021/01/29

手続き

2020/09/29

箱根小旅行

2020/05/29

幕末のコロリ

2020/03/30

じゃんけん

2020/02/28

ネジの一締め

2020/02/03

両国の風情

2020/01/02

正月

2019/09/28

体育の個人史

2019/09/02

巡検

2019/05/29

看板考

2019/04/27

令和と開発

2019/03/30

人の一生

2018/12/28

イノシシの話

2018/11/02

松阪への旅

2018/10/01

地球の誕生

2018/07/30

芝居見物

2018/06/29

橋掛人

2018/05/31

業界の守り神

2018/03/31

日常と非日常

2018/02/27

道具をつくる

2017/09/29

蕎麦のこと

2017/06/08

information

2017/05/29

無料の本

2017/04/28

長崎への旅

2017/02/27

詩の活用

2017/01/31

二月

2016/11/29

自然観

2016/09/28

新宿末広亭

2016/09/02

補助線

2016/07/30

思い込み

2016/06/02

企画書

2016/04/27

台湾への旅

2016/02/26

解釈の違い

2015/12/29

人生の節目

2015/11/30

探索学習

2015/10/29

お馬の運動会

2015/09/30

ルール

2015/08/31

幕末の京都

2015/07/30

地図の愉しみ

2015/03/31

社会人入試

2015/02/27

スピーチ

2015/02/04

お江戸日本橋

2014/12/28

関心

2014/12/01

モデル

2014/10/30

君が代

2014/08/29

ワインの話

2014/02/01

転職 (2014/02/01)

2013/12/01

10円

2013/11/01

と言えり

2013/10/01

肩書き

2013/06/03

差の効用

2013/05/01

システム思考

2013/04/01

木配り

2013/02/04

氷山モデル

2012/11/01

プラス60年

2012/10/03

制約条件

2012/09/04

氷が解けたら

2012/08/03

的の先

2012/05/11

四月

横浜の近代理髪業の由来
2019/10/29
2019/11/01

秋のとある日に、天気が良かったので横浜探訪に出かけた。横浜は海外からの近代文明を日本に導入した西洋文化発祥の地としても有名であり、その実態は斎藤多喜夫著『幕末・明治の横浜 西洋文化事始め』に詳しく報告されている。近代理髪業の発祥地も横浜とされており解説がある。どのような状況だったのかについて今回はご紹介したい。

最初の訪問先は、港に面した山下公園内にある「ザンギリ」と題した記念碑である。この記念碑は、有名なセリフである「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」の断髪を表現したものである。どことなくモアイ像に似たデザインとなっている。西洋理髪業発祥の地との説明文があるが、この石碑は神奈川県理容生活衛生同業組合と全国理容生活衛生同業組合連合会(全理連)の寄贈により、1989年に設置された。近くにある横浜開港資料記念館では昔の資料が閲覧でき、ここで必要な関係資料を複写することが出来た。得られた各種資料と全理連のウェブサイトとが語るところによれば、横浜の近代理髪業発展の経緯は以下の通りである。

英文の『ザ・ジャパン・ヘラルド』紙1864年3月5日号の広告欄は、「ヘアドレッシング&シェイヴィング・サロン」の開業とその店には経験を積んだ西洋の理髪師がいることを知らせている。また、同紙1865年10月14日号では、理髪師・香水師であるヘンリー・P・ファーガソンの店が、横浜ホテルから旧パーカー写真館の場所への転居を知らせている。この当時は結髪の時代だから、主として外国人理髪師による外国人相手の理髪店だったと推測される。

開港当初に、越前福井藩が太田陣屋(現在の中区日ノ出町)に駐屯し、後にフランス式三兵伝習所を1866 (慶應二) 年に開設し、フランス士官を教官として、歩兵・騎兵・砲兵の調練を開始した。この頃から伝習所の学生の中で散髪する者が出てきたのであり、「我が国の断髪風俗の最初は横浜における洋式調練者によって、その端を発したのである」(『横浜市史稿・風俗篇』)という。つまり散髪という新技術の利用客にあたる人々の存在があったわけで、断髪令( 1871 (明治4)年8月9日布告)が登場する前のことであった。

理髪業という当時としては新しい技術革新の導入者(イノベーター)であり、横浜の断髪者の始祖として名前が挙がるのは小倉虎吉である。『時事新報』(1882年に福澤諭吉が創刊)の1898年8月7日号と8月14日号の二つの号にわたり、「理髪の沿革」と題する記事がある。それによれば、小倉虎吉ら数名の名が紹介され、横浜に入港する異国船(イノベーションの開始地点に当たる)に、一挺の剃刀を携えて出入りし、船員の顔を剃っていた。これが結構な収入になる。鋏の使い方も覚え、小倉は1869 (明治2)年に神奈川県庁に斬髪師の鑑札を出願し、外国人のみが客対象として、営業鑑札48枚の許可を得た。明治1,2年頃に「今の一四八番館即ち俚俗支那屋敷に散髪床」(現在の横浜中華街大通り)を開いたという。これが日本国の斬髪師の嚆矢となった。その後に、「一四八番」を店名にする理髪店も増加する。

小倉虎吉は髪結床の開業から始めたが、剃刀を使えることが、近代理髪業の基礎技術となっている。あとは、鋏とバリカンがあれば、現代の理髪業とほぼ同じになる。1882(明治15)年頃には理髪店が普及し、横浜市内で約50軒の店があったそうである。断髪所が始まった頃の店の看板には、西洋髪刈所、西洋風髪剪所、英仏髪剪所などの名称があったが、その後に、理髪店、調髪店、美髪館、理容館など、現代でもお馴染みの名称に変遷していった。古い絵画や写真などを見ると、店の看板が英文で記されているものがある。

小倉虎吉以外には、松本定吉、富岡浅次郎、柴垣榮吉なども横浜で西洋理髪業を営み活躍した。松本定吉の墓は横浜市中区の妙香寺にあり、墓石には「元祖西洋理髪師」と彫刻されている。松本の弟子で、アイロンやシェーヴィング・クリームを開発し、理容教育に貢献した芝山兼太郎の墓も同じく妙香寺にある。小倉の仲間たちは、その後東京に進出し発展していった。まさに技術革新(イノベーション)の伝播であるが、東京の話題は別の機会にご紹介することにしたい。今回は昔の話に関することなので確認できない事項もあったが、多数の資料の力を借りることができた。ここでは散髪という名の新しい技術様式の導入とその普及に着目して、横浜の近代理髪業の由来の一端をご紹介した。



(金安岩男 慶應義塾大学名誉教授)
他のコラムを読む 艶肌コラム 技術の心 心の技術
大野WORK
大野HOBBY