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秋のとある日に、天気が良かったので横浜探訪に出かけた。横浜は海外からの近代文明を日本に導入した西洋文化発祥の地としても有名であり、その実態は斎藤多喜夫著『幕末・明治の横浜 西洋文化事始め』に詳しく報告されている。近代理髪業の発祥地も横浜とされており解説がある。どのような状況だったのかについて今回はご紹介したい。
最初の訪問先は、港に面した山下公園内にある「ザンギリ」と題した記念碑である。この記念碑は、有名なセリフである「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」の断髪を表現したものである。どことなくモアイ像に似たデザインとなっている。西洋理髪業発祥の地との説明文があるが、この石碑は神奈川県理容生活衛生同業組合と全国理容生活衛生同業組合連合会(全理連)の寄贈により、1989年に設置された。近くにある横浜開港資料記念館では昔の資料が閲覧でき、ここで必要な関係資料を複写することが出来た。得られた各種資料と全理連のウェブサイトとが語るところによれば、横浜の近代理髪業発展の経緯は以下の通りである。
英文の『ザ・ジャパン・ヘラルド』紙1864年3月5日号の広告欄は、「ヘアドレッシング&シェイヴィング・サロン」の開業とその店には経験を積んだ西洋の理髪師がいることを知らせている。また、同紙1865年10月14日号では、理髪師・香水師であるヘンリー・P・ファーガソンの店が、横浜ホテルから旧パーカー写真館の場所への転居を知らせている。この当時は結髪の時代だから、主として外国人理髪師による外国人相手の理髪店だったと推測される。
開港当初に、越前福井藩が太田陣屋(現在の中区日ノ出町)に駐屯し、後にフランス式三兵伝習所を1866 (慶應二) 年に開設し、フランス士官を教官として、歩兵・騎兵・砲兵の調練を開始した。この頃から伝習所の学生の中で散髪する者が出てきたのであり、「我が国の断髪風俗の最初は横浜における洋式調練者によって、その端を発したのである」(『横浜市史稿・風俗篇』)という。つまり散髪という新技術の利用客にあたる人々の存在があったわけで、断髪令( 1871 (明治4)年8月9日布告)が登場する前のことであった。
理髪業という当時としては新しい技術革新の導入者(イノベーター)であり、横浜の断髪者の始祖として名前が挙がるのは小倉虎吉である。『時事新報』(1882年に福澤諭吉が創刊)の1898年8月7日号と8月14日号の二つの号にわたり、「理髪の沿革」と題する記事がある。それによれば、小倉虎吉ら数名の名が紹介され、横浜に入港する異国船(イノベーションの開始地点に当たる)に、一挺の剃刀を携えて出入りし、船員の顔を剃っていた。これが結構な収入になる。鋏の使い方も覚え、小倉は1869 (明治2)年に神奈川県庁に斬髪師の鑑札を出願し、外国人のみが客対象として、営業鑑札48枚の許可を得た。明治1,2年頃に「今の一四八番館即ち俚俗支那屋敷に散髪床」(現在の横浜中華街大通り)を開いたという。これが日本国の斬髪師の嚆矢となった。その後に、「一四八番」を店名にする理髪店も増加する。
小倉虎吉は髪結床の開業から始めたが、剃刀を使えることが、近代理髪業の基礎技術となっている。あとは、鋏とバリカンがあれば、現代の理髪業とほぼ同じになる。1882(明治15)年頃には理髪店が普及し、横浜市内で約50軒の店があったそうである。断髪所が始まった頃の店の看板には、西洋髪刈所、西洋風髪剪所、英仏髪剪所などの名称があったが、その後に、理髪店、調髪店、美髪館、理容館など、現代でもお馴染みの名称に変遷していった。古い絵画や写真などを見ると、店の看板が英文で記されているものがある。
小倉虎吉以外には、松本定吉、富岡浅次郎、柴垣榮吉なども横浜で西洋理髪業を営み活躍した。松本定吉の墓は横浜市中区の妙香寺にあり、墓石には「元祖西洋理髪師」と彫刻されている。松本の弟子で、アイロンやシェーヴィング・クリームを開発し、理容教育に貢献した芝山兼太郎の墓も同じく妙香寺にある。小倉の仲間たちは、その後東京に進出し発展していった。まさに技術革新(イノベーション)の伝播であるが、東京の話題は別の機会にご紹介することにしたい。今回は昔の話に関することなので確認できない事項もあったが、多数の資料の力を借りることができた。ここでは散髪という名の新しい技術様式の導入とその普及に着目して、横浜の近代理髪業の由来の一端をご紹介した。
(金安岩男 慶應義塾大学名誉教授)
